初めまして! 今回初めて寄稿させていただくまさなおと申します。専門は近代日本史、もっと絞って言えば大正から昭和戦前期の政治史です。日本が華やかな大正ロマンの時代から暗い戦争の時代へと向かっていく頃ですね。「なんで想像膨らむ古代とか夢の溢れる戦国とかにしなかったの?」とはよく言われました(笑)
そんな、一見面白くない(?)大正・昭和初期ですが、知っているからこそ楽しめることもあるんです。今回は、あの有名アニメ映画に垣間見える歴史のお話を通して、近代歴史学の面白さが少しでも伝わればと思います!!
あの有名なアニメ映画――皆さまはもう見られたでしょうか? 歴代興行収入ランキング1位、歴代最速興行収入100億円突破、国内史上初の興行収入400億円突破など、空前の記録の数々を打ち立てた「劇場版「鬼滅の刃」無限列車編」です。
「鬼滅の刃」ストーリー
社会現象にもなった「鬼滅の刃」。アニメを見たりマンガを読んだりしたことのない方も、名前は聞いたころがあるのではないかと思います。
「鬼滅の刃」は吾峠呼世晴さんのマンガ作品が原作で、舞台は人を食らう「鬼」が存在している大正時代の日本。山奥の炭焼きの家に生まれた主人公・竈門炭次郎は、町に炭を売りに行っている間に家族を鬼に惨殺され、唯一生き残った妹の禰豆子も鬼の血が入り込んだことで鬼と化してしまいます。炭次郎は家族を殺した鬼の始祖・鬼舞辻無惨を倒し、妹を人間に戻すため、禰豆子を見逃して助けた剣士の冨岡義勇や、剣士を育てる「育手(そだて)」の鱗滝左近次の導きで、鬼を討伐する組織である「鬼殺隊」に入隊します。
劇場版「鬼滅の刃」無限列車編
人を食らう鬼を倒しつつ、妹を人間に戻す方法を探す炭次郎。鬼との戦いの中で、生家に伝わる舞「ヒノカミ神楽」を戦闘に応用できることに気付いた炭次郎は、その神楽の起源の謎を求め、炎の呼吸の使い手であり、炎柱(えんばしら)の称号を持つ剣士・煉獄杏寿郎と会うため無限列車に乗り込みます。しかし、炭次郎や同期の我妻善逸、嘴平伊之助が乗り込んだ列車では人が消える現象が起きていました。炭次郎たちは汽車と融合して乗客を人質にとった鬼、魘夢(えんむ)や、援軍に現れた猗窩座(あかざ)との戦いに挑みます。
乗車前のひと悶着:鉄道を知らない炭次郎と伊之助?
炭次郎たちが無限列車に乗り込む前の一幕に、大正時代の歴史をかじっているとクスリと笑える一幕がありました(『鬼滅の刃』には随所に笑えるネタもちりばめられています……という話はそれだけで長くなりそうなので、深く触れないことにしましょう(笑))。
煉獄を追って列車に乗り込むため、駅にやってきた炭次郎たち一行。初めて見た機関車に伊之助は「なんだあの生き物はー!!」と叫び驚きを隠せません。機関車を謎の生き物だったり土地の主だったりという扱いをする伊之助に対し善逸は「いや汽車だよ知らねえのかよ」と冷静なツッコミを入れますが、炭次郎も「(バケモノではなく)守り神かもしれない」とボケにボケを重ね出す始末。しまいには伊之助が「猪突猛進!!」と雄叫びをあげて機関車に突っ込み始め、善逸から恥ずかしいと引き剝がされる羽目になりました。個性的なキャラが繰り広げる戦いの合間のドタバタ劇もまた、「鬼滅の刃」の面白さだと思います。
しかしところで、大正時代に生きていた人が機関車の存在を知らないことはあり得るのでしょうか。
大正時代に広がった鉄道網:「幹線」から「局地鉄道」へ
日本の鉄道の歴史は1872年(明治5年)、東京(現在の新橋)~横浜間が開通したことに始まります(黒船でやってきたペリーがミニチュア機関車を走らせたとか、厳密に言えばそういう話もありますが、ここでは運賃を取って営業を行う本格的な鉄道に限ることにします)。その後、全国各地の主要都市を結ぶ幹線が次々と建設されていきます。ただし、明治時代の政府は鹿児島で起きた西南戦争などの影響で財政難に陥り、明治時代後半の鉄道建設は民間の資金力で進められることになりました。東北本線、常磐線、中央本線、山陽本線といった、今や日本の大動脈となっている路線でさえ、もともとはその全部ないし一部が私鉄だったのです。
明治時代も終わりに差し掛かる1906年(明治39年)、「鉄道国有法」が施行され、大都市同士を結ぶ幹線は原則として国に買収されました(東武鉄道や南海電鉄など、一部は買収を免れた会社もありました)。大幹線を民間企業に任せておくと政府の介入がしづらくなり、産業政策や軍事輸送がやりづらくなるというのがその理由です。これによって、民間企業による大幹線の建設ブームは過ぎ去りましたが、代わりに1910年(明治43年)に「軽便鉄道法」が出されたことによって、今度は小規模な鉄道建設がブームになりました。
「軽便鉄道法」は、地域開発のために簡単な規格で鉄道を作ることを認めた法律です。これによって、国営鉄道の駅と地方の中小規模の町とを結ぶ路線が急速に増えてました。輸送のメインルートとなりつつあった国営の大幹線と自分の町とを繋げることで、地域の発展に繋げようという人たちが全国各地に現れたのです。
大正時代は、全国のいたるところに鉄道が繋がり始めた時代でした。そんな時代背景の中ですから、初めて見た汽車に頭突き攻撃を加えた伊之助を善逸が田舎もん呼ばわりしたのは、なかなか本気でバカにしていたのが想像できます。「鉄道知らないとか、どんな未開の地だよ」といった感じで。もっともそれも、山奥で「猪に育てられた」と言う伊之助には無理のないことですが。
軽便鉄道の実情:流山軽便鉄道を例に
ここで、千葉県流山市に建設された流山軽便鉄道を例に、大正時代に作られた軽便鉄道とはどのようなものなのか見てみましょう。
まずは、流山市の位置確認から。流山は千葉県の北西部・江戸川沿いにあり、江戸時代から江戸向けの物資積み出し港として、またみりんの名産地として有名でした。
そんな、江戸川の水運を利用して江戸(東京)に物を送っていた流山に、1896年、ひとつの事件が起こります。南隣の松戸や柏を結ぶ鉄道、土浦線が開設されたのです(この路線は現在、常磐線と名前を変えて東京と茨城方面を結ぶ重要路線になっています)。
もともと流山は江戸川を利用した水運で東京と結ばれていましたが、土浦線が出来たことによって交通の主要ルートから外れ、ピンチに陥っていました。そこで流山でみりんの製造をしていた秋元平八らが中心となり、1911年、流山軽便鉄道の計画を立てます。
以上の背景は、例えば以下のような史料で確かめられます(余談ですが、歴史学では歴史的な価値ある文書を「資料」ではなく「史料」と書きます)。
「(一)本企業が公益上に及ぼす影響及其の効用
本企業地の一端流山町は個数壹千戸餘を有し、醸造家多く、有名なる流山味醂の生産地として其名髙く、他の一端は国有鉄道常磐線に連なり此の間僅かに四哩餘なるも、従来運輸交通機関充分ならず、社会的需要益々増大すべき産物は直輸出の便を缼き自ずから販路伸びず。又、交通盛なるべき沿道町村の血も亦た開発の域に到達せず、一朝本企業完成するに至らんが、此の流山町の生命とも見るべき名産味醂は鉄路千里を辿りて直輸出の便を開き、遠く各地との交通貨客の誘引を自ずから増大せしめ、附近町村は其の首脳地の発展に伴いて漸次其の濕を享るに至るべく、有数なる生産地が空しく衰頽の傾向あるを積極的に発展の域に導き、併せて沿道地方公益上の利便蓋し大なるものありと認む。 (以上)」
出典:内閣鉄道院監督局「鉄道免許・流山鉄道1・大正2~5年」国立公文書館本館所蔵 請求番号:平12運輸02071100
これは、「内閣鉄道院監督局」という当時の役所に保存されていた公文書で、鉄道認可をすべきかどうか問い合わせを受けた当時の千葉県知事からの照会状の一節です。少々読みにくいですが、「産物」が「直輸出の便」を欠いているため売れない、だから鉄道を作って「衰頽(=衰退)」しつつある流山を「積極的に発展の域に」導こうとする当時の人たちの熱意が見てとれます。
他の史料も見てみましょう。こちらは流山の発起人たちが書いた嘆願と、発起人の身元が書かれた名簿の現物です。
「調書」の一番上の段に「資産」として「地租」の納税額が記されているのが今と違って面白いですよね。二段目は「職業」が記されていますが、圧倒的に「商業」が多くなっており、みりんの出荷のために作られた事情を伺わせます。三段目は「信用ノ程度」が書かれています。最後の二人だけ「普通」となっていますが、ほとんどの人は「有」となっており、ごく一部「厚」となっている人もいます。上のページ、左から五人目の人です。「厚」に見えないよ!と思われるかもしれませんが、これは「崩し字」の一種で、戦前のころは手書きの文字を書くときに省略した文字を書くことがあったのです。
このように、地方の財力がある地主や大商人など(研究書では「素封家」と表現することもあります)などが、地域の産物を国鉄の大きな路線の駅まで届けるために小さな鉄道を作ることがよくありました。ひょっとしたら、炭次郎や伊之助が育った場所の近くまで鉄道がやってくる……なんてことも、十分にありえると思います。
都市鉄道と幹線:炭次郎の見た東京、無限列車の行き先
大正時代の地方鉄道が上のように発展していたのなら、大都市の鉄道はどのようになっていたのでしょうか。
実は、炭次郎が東京にやってきた時点で、かなり近代的な鉄道網が出来ていました。時系列で映画の前にあたるテレビアニメ「炭次郎立志編」で、初めて浅草に来た炭次郎が啞然とするシーンがありますが、山奥で育つとかなりのカルチャーショックだったことでしょう。何しろ、東京では大正どころか明治時代の1903年(明治36年)、既に路面電車が運行されていたのです。
さかのぼること1882年(明治15年)、東京で初めて作られた市街鉄道の動力は、なんと馬でした。馬がレールの上に乗った客車を曳いていたのです。今ならまずお目にかかれないこの鉄道を「馬車鉄道」と呼びます。
馬車鉄道は次第に、発展する一方の東京の交通を捌ききれなくなっていきました。また当時の新聞によると、馬の飼育代も問題になっていたようです。馬車鉄道は1908年に電気で動く市街電車に置き換わります。
さらに1914年(大正3年)、現在の京浜東北線にあたる京浜線が、これまでの「汽車」ではなく「電車」として運行を開始します。試運転初日から故障するなどトラブルに見舞われたものの、これ以降鉄道の動力は蒸気から電気に切り替わっていきます。翌1915年時点では京浜線に加えて、中央線の万世橋(いまの御茶ノ水~神田間にあった駅)~中野と、山手線の上野~新宿~東京が電化されました。東京に限っていえば、炭次郎たちが見た東京は既に山手線+京浜東北線+中央線に当たる区間のほとんどが完成していたのです。
一方、首都圏を離れると汽車が主体でした。例えば日本の大動脈である東海道本線も、1928年(昭和3年)にようやく熱海までの電化が完成したくらいです。炭次郎たちが乗った無限列車は東京始発で、切符の行き先は「無限」(車掌さんが切符を切る瞬間、チラリと見えました)。当然架空の地名ですが、映画を見る限り機関車が単線区間を走っているので、相当東京から離れたところまで行こうとしていた列車だったのでしょう。
今回は、映画「劇場版「鬼滅の刃」無限列車編」を題材に、大正時代の鉄道についての小ネタを紹介してみました。歴史というと、よく分からない将軍や政治家が何をしたのかを暗記するだけのお勉強に思われがちですが、本当の歴史学は、文書として残った史料を読み解いて過去の姿を再現する営みです。もしかしたら、ひとつの史料が好きな物語を、あるいは目の前の世界を、少しだけ別なものに見せてくれるかもしれない……。そんな面白さが少しでも伝われば幸いです。
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